公衆衛生の必要性

インド・ハリヤナ州 ビラ・パンチュクラ村の公立学校

公衆衛生は人間の生活の基本的な側面の一つです。仮に社会が人間の生活環境を尊重しなければ、社会はどのように人間の生活を評価するのでしょうか?人間と動物を区別するもの、それは私達には自らの行動の現在と未来の影響を考える能力があることです。

先日インドを訪れた際、私はニューデリーからジャイプルまで電車に乗りました。私が最後にインドの駅に足を運んだのは実に40年以上も前のことでした。Shatabdiのファーストクラスの列車旅行は大変人気で乗車券を手に入れるのは非常に困難です。私はインドの大きな経済成長のために、その旅は当然のように快適なものになっていると考えていました。特急列車は朝6:00に出発予定で、私は5時半ごろに駅に到着しました。駅は列車に乗ろうと人や、乞食、ホームレスでごった返していました。私はプラットホームで寝ている人々を飛び越えて先に進まなければなりませんでしたが、まさかそこで人の排泄物を見付けることになるとは予想していませんでした。いったんファーストクラスの客室に入ると私は一時間ほど窓の外の景色を見ることができませんでした。なぜならどこを見てもそこには外で用を足す人やビンのゴミが散らかっていたからです。

どうしてインドの人々はこのようなひどい有り様を見て驚かないのでしょう?

高級バスにすらトイレは備え付けられていません。しかし、ハリヤナ州の州都チャンディガルからデリーへのバス旅行は快適な空調、リクライニングシート、十分な飲料水、娯楽用の映画のために非常に快適なものになりました。移動の途中、男性の乗客が運転手に話し掛けに行きその数分後にバスは止まりました。そして多くの乗客がバスから降り始めました。わたしは緊張していました。外は活気のある地域には見えず、夜はどんどん更けて行きました。バスの中にはたった数人の女性がいるだけでした。ほっとしてまたうんざりしたことに、それは乗客が用便を足すためにちょっと道路の傍に止まっただけだったのです。私は運転手になぜインドの女性は我慢できるのに男性はそれが出来ないのか、と尋ねずにはいられませんでした。もちろん返答は得られませんでした。誰もその問題を認めようとはしなかったのです。もし私がその問題を目や耳にするとこなく、また話すこともなければ、それは私には関係の無い話です。それは私より貧しいか、カースト制の下級に属する人々の問題であるに過ぎないのです。これはインドで起きている全ての問題に対する人々の態度であるように思えます。

インドの家庭ではトイレの数は携帯電話より少なくなっています。したがって朝に用を足そうと外出した10代の二人の少女はその時、集団レイプ、リンチに遭いました。公共の場には勤務中の警官のためのトイレはありません。加えて人々は適切にトイレを使用しません。もしそのトイレが清潔に保たれていないなら、それらは公衆衛生を媒介とした病気の温床となりえるのです。公衆衛生の不備は下痢や失神、消化器病、脳炎などの病気の拡散を引き起こすのです。世界中で下痢性の病気を引き起こす事例の88%が不安全な水や不適切な衛生状況が原因となっています。発展途上国では毎年約170万人もの人々が下痢性の病気によって命を落とし、その犠牲者の90%が5歳以下の子供達です。灌漑設備と水不足はただ問題のいくつかに過ぎません。多くのヒンディー教徒とって女性は月経期間中、礼拝堂や調理場に入ることができません。しかし例えばポイ捨てや男性の屋外での排便に対して、何らかの社会的不名誉は存在していません。衛生、技術的問題はさておき、トイレは身体的、性的暴行の現場となってしまうのです。我々の行動の目的は単に地域の要望に応えた公衆トイレを促進することではなく、成熟した社会になるために公衆衛生の重要さについて人々の自覚を促すことにあるのです。

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