沿革

多くの人が目の前のことやお金ばかりの為に生きています。しかし、人生の価値はお金だけでは計れません。そして目の前のことではなく、”次世代により良い世界を残す”ということが大切なのです。現代社会におけるすべての場所が安全で、すべての学校が完璧に機能していたら、今以上の生活を得るのにも今ほどの労力やお金はかからないでしょう。
そのために基盤作りが必要なのです。それは人間の習慣と個性のバランスの取れた社会を生み出す原動力になるのです。これは現代の人々が乗り越えようとしている問題です。この問題の解決に向かって、個性の良い部分と社会の良い部分は調和するべきということを定期的に啓発していく必要があります。残念ながら多くの人々はこの問題を直視していません。
当財団では”どのようにしたら彼ら自身の生活を向上させるために、会社のコミュニティーや彼ら自身のコミュニティーを通して支え合うようになるか”を考えてもらうために活動していきます。それによって、少しづつ世界が変わり始めるのです。
 – Sonia Dhillon Marty
 

2つの事柄がディロンマーティ財団創立の始まりになりました。1つ目はこの財団の創立者の父であるイシワー・ディロンの死去(故・2011年1月)と、2011年3月11日に起きた東日本大震災です。この二つの個人的・社会的な悲しい事柄を通じて、今後の国際社会や次世代のために何ができるか、何が必要かをソニアディロンマーティに気づかせました。そして彼女はディロンマーティ財団を設立し、社会を変えるた為の活動の種を播き始めました。少しづつ成長させ、社会により良い影響を与えてゆきます。

イシワーに敬意を払い、インスピレーションはこの財団から

Paying homage to Ishwar, the inspiration behind the Foundation

‘Dhillon Sahib’ – Late Sardar Ishwar Singh Dhillon

Ishwardhillon

イシワル(バジー)は中流階級の普通の家族に生まれました。彼は著しい容姿と人並み外れたIQの持ち主でした。幼いころ世間から見放されても、彼は強い向上心の持ち主でした。彼は真実の天才だったのです。神は彼に他人よりも意味のある目的を与えたのです。彼は優れた学校や大学に行けなかったのにも関わらず、参加したすべての場所で素晴らしい才能を発揮しました。
彼は常に限界寸前の不利益な農家のために声を挙げていました。地方の農家の人々がそのエリアの中で少しでも利益をあげられるようにしたのです。彼はいつも貧しく力の弱い人たちの平和と愛と正義のために立ち上がり、働きかけていました。彼ら自身が団結することで、彼らに威厳と尊重を取り戻してもらいたかったのです。
彼の初めの成功はトラブルと共にありました。そこで彼は「なぜなりたいようになれないんだ?なぜ人間としてのスピリットや思想における自由になれないんだ?魂の叫びの裏にある人としての誇りは認められずに制圧されてしまうのか?私は父の葬儀中いくつかの思いを書き留めましたが、この感情を100%表現することはできませんでした。
バジーは目立った才能で人々の忠誠に影響し続けました。その功績を証明するかのように、葬儀には多くの贈り物が備えられました。私は彼のそばで多くの時間を過ごしました。彼がいた期間(1966-January 14, 2011)は常に私に刺激を与え、経験を豊かにしてくれました。この誇りに満ちた期間のことを常に念頭に置き、彼への尊重と敬愛を抱いてゆきます。彼はそれに値するのです。
私は彼の死後も、父との思い出と知識を満ち足りた気持ちで大切にしていきます。彼の記憶は崇高な伝説として、彼が去った今もなお続いていくのです。バジーはコミュニティーにおけるリーダーシップという存在を作り上げました。それは1人だけではなく真実のプロフェッショナルとしてです。彼は俗にいう”できる人”でした。彼は偏見を持ち、権利や力を政治や社会などに影響させる者たちの敵でした。彼は教えを説くときにスローガンを掲げるだけのものではなく、自分自身を使って伝授しました。そして彼は彼の心に近いコミュニティーに生涯かけて携わりました。
彼は地方で起こっている問題に深い理解があったため、熱意と勇気と想像力で日々立ち向かっていました。彼の温かくて、親愛で情深く、献身的な姿は人々から深い尊敬と崇拝を受けました。彼にとっての真実とは愛と人間性でした。人々の友好・理解・協力のための公平な雇用作成事業の促進を積極的に行い、彼は社会におけるたくさんの偏見やゆがみを緩和・軽減・除去しました。彼は素晴らしい市民であり非宗教的概念の真の見通しを持ってる人でした。
彼は人々から尊重・尊敬され、愛されていました。バジーは勇気や想像・可能性に対して、深い信頼がある人間に同情と理解・抱擁を与えました。今この世界はより良い世界と相互理解・平和な関係を作り上げるために、このようなバジーの価値観や概念を必要としています。
彼よりも思いやりのある愛を示した人が何人かいましたが、彼らの興味はどう社会に影響を与えるか。という方に向いていました。一度人々のためを思った信念ある有用なプログラムができたら彼らはそれに従事しました。バジーは偉大な寄付の促進によって得た美徳で満たされていたかもしれません。しかし彼は影響力のある同盟や関係を促進しました。彼は目標達成のための素晴らしい能力を持っていて、彼は社会のためだけでなく一般の人のためにも、誰も気づかないところでも、善意は変わりませんでした。
時に彼のようなリーダーは現れます。それは人の個性と考え方の質違いによるものです。バジーのような人物はすべてにおける公平と平等における強健なチャンピオンです。彼がか関わっていた大きな取り組みとしてはアームアードミ党の繁栄です。役職に就くと彼の持っているものすべてを費やしました。見返りを全く求めずに忠誠を誓っていたのです。そして他人の成長を見届けることに喜びを感じていました。彼のほとんどの活動は所属や要求に応じて変わってくる貧困層の対応でした。公共との取引を良心的に行いました。彼は実年齢の半分ほどの若い活力と、年に応じた賢さがありました。どの年代をみてもそのような人はいませんでした。彼はとても暖かい人間性の持ち主で、彼からギフトはいつも貧困層に送られました。彼の人生にかかわったすべての人に彼は幸せをもらっていました。彼の人生は熱心で充実していました。彼には少しも自分勝手な動機がありませんでした。私は少ししか知らないのですが、彼よりも多くパンジャーブの農家コミュニティーに福祉施設を寄贈をした人もいます。バジーの目的の素晴らしいところは彼が本来持ち備えた賢さと農家共同団体の幸せを考えたことです。彼はいつも人々の称賛の的でした。78歳の人間がこんなにもたくさんのことができて、個人ではなく多くの農業団体に影響を与えているということは私にとても良い刺激を与え続けてくれました。彼の暖かくて寛大で誠実な人柄は彼に素晴らしい友人をもたらしたとも思います。
彼が約45歳になるころには彼への尊敬の念は経過とともに大きくなっていました。そのころ、私はがなぜ彼がそこまですべてに対して素晴らしくいられるのか。を知ることができる特権を得ました。その答えは、それが彼の本能だったからです。彼はコミュニティーの幸せと彼の人並み外れて献身的に人を助けるということが本当に好きだったのです。彼は良いこと正しいということに恐れを知らない人でした。社会問題に適応するための能力は、彼が本来持ち備えた個性と聡明さであり、それが業績となって現れたのです。彼は常識やバランス・勇気など完璧な素質の持ち主で、そしてすべてにおいて実直な人でした。
彼のやさしさと賢さはいつも勇気ある決断とより良い農業のために努力をする人々に平等に向けられました。彼は文字通り1000人もの貧しい人々に勇気と希望を与えました。彼は個々の権利を認証してもらうためにリーダーとなって戦いました。彼の熱意と描く未来像は、どんな時も人間性をより良いものにできる環境を作ることでした。彼以上に安易に問題の大きさを把握し、問題の解決に向かって核の部分を捉えることのできる人物はいませんでした。彼の不屈の勤勉さ、音の感覚、揺ぎ無い忠誠心がこのような人物を作り上げたのだと思います。彼から助力を受けた人々のすべてが利益を確実に得ています。彼の人生における理論は「道を歩こうとしたときに、そこにいる者たちに感謝して、そこであった人たちを愛することができたら、人々から愛されるようになる」ということでした。彼は自分のためだけの安楽した老後の生活を願う気持ちを持っていませんでした。彼は体力とエネルギーの強さで人々をいつも驚かせていました。彼が触れたものは輝き、より良いものになるのです。バジーは揺ぎ無い信念を持っていました。個人の良心をテストするということはその年齢、苦しみ、病気に意見するということなのです。彼は瞬時にその人の状況をくみ取れる人でした。彼は知性や見分の広さや自主性の象徴のような人でした。彼は人間的にとても珍しい魅力を持っていました。穏和で寛大で自然と優しさに満ち溢れていました。彼は壮大な志の持ち主で、博愛主義を念頭に置いていました。そして、他人の困難に誰よりも哀れみ、理解していました。彼は聖人のような人格の持ち主で人の志に対する偏見が全くありませんでした。
彼は優しく・寛大で、自然とでる彼の所作は完璧なものでした。彼の忠誠心は彼の友達たちにとっても素晴らしい個性となっていました。一人間として愛嬌を放出しているような人物でした。彼が私の前から永久的に姿を消してしまったということはとても大きなことです。私はこの世の中に彼ほど人のために労を費やせる人はもういないと思います。彼はうらやましいほどに真っすぐで明白な考えを持っていました。少しの間違いにも耐えられませんでした。そして彼は「会話はいつでも喧嘩より良い、喧嘩で刺されてしまうよりかは」といって人々の声に耳を傾けていました。
彼は非の打ちどころのない完璧な公平な考えの持ち主でした。彼は、すべての男性が固有の威厳を持っていてそれは尊重され守られていくべきである。と信じていました。そして、貧困や生まれつきの問題でまだ世に出ていない男の子・女の子たちが成功する権利を拒否しないでほしい。といつも訴えていました。
私はこのバジーの思い出を大切にします。彼の死後も彼のことを思うことは慰めにもなります。そしてその記憶は偉大なコミュニティーを刺激し永続させることになります。私はしばしば父が貧困層から自給し経済的に独立するために援助した人々への業績を振り返ります。今日も、彼からの献身的なサポートを受けた多くの恩恵受益者が新たな成果を上げているのです。
私たちはイシワル・ディロン(バジー)の死去の後長い間、とてもつらい状況が続きましたが、この気持ちを量で測ることはできません。いま私たちが生きているこのコミュニティーも彼がいないと貧弱で希望のない状況に見えます。バジーの死去は私たち個人的にもコミュニティーにとってもとても深刻な不幸なことでした。死は私たちから彼を奪いましたが、根本的なことは、イシワルバジーがどのような人物だったかということです。そして、彼の魂は永遠に平和なところで休まるでしょう。

Amrik S. Gill

 

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